プロフィール 社会保険労務士、社労士 広島


宇品小4年3組
広島市の昭和100年242ページ宇品小学校4年3組のクラス写真

 

  広島市南区宇品の生まれ

 出生地は現在コジマ電気の宇品店が出店しているその場所である。

 そこはキンカエンと呼ばれていた。漢字はよくわからない。

 錦花園、錦華園、さあ、どうだろう、

 当時の近所の人にいつか聞いてみたい気もする。

 当てがないわけではないが、ちょっと、はばかられる。

 その場所には今から数十年前、大和人絹という会社の平屋長屋の社宅が工場に隣接し

 

て十数棟並んで建っていた。

 工場跡地は、今、マツダ宇品工場が建っている。

 住んでいた長屋は八っつぁん、熊さんが出てきそうな懐かしい長屋風景であったと記

 

憶する。

 ぼくが物心付いたときには既に大和人絹は工場を閉鎖しており、従業員の社宅だけが

 

残った。

 長屋の空き地では毎日遅くまで子供たちが大勢群れて遊んでいた。

 上は中学生から下は就学前の子供までが群れていた。

 子供たちの姿は消えたが、懐かしの長屋風景を50年近くたった今でもそこから、数

 

メートル離れ場所で見ることができる。

 広島市立宇品中学校のグラウンドの南、旧国鉄宇品線沿線に存在する平屋の長屋群が

 

それである。

 その場所を、新社宅と呼んでいたような気がする。

 そこに現存するのと殆ど同じ風景がコジマ電気の宇品店の場所にも、かつて存在して

 

た。

 今も残る長屋群の周辺は毎年、初夏になると、タチアオイが群生する。

 地域の人々は毎年タチアオイ祭りを催している。(注1)

 キンカエンは今から何十年か前取り壊され、しばらくの間、マツダの社員寮が建てら

 

れていたが、やがてそれも取り壊され最近コジマ電気の巨大な宇品店ができたのであ

 

る。

 キンカエンの跡地にできた店だから是非末永く繁盛してもらいたい。


 小学校の3年の初めまでそこで暮らした。ぼくの第一の故郷である。

 キンカエンに暮らしていた懐かしい人々は今どこでどうしているのだろうと、時々思

 

いを馳せる。

 
 小学校入学前、翠町のサイセイ幼稚園というところに年長から半年間通園して、泣く

 

泣く中退したのを覚えている。

 登園拒否ではない。行きたかったのに家の都合でいけなくなった。

 その後、できたばかりの宇品東小学校に入学、大州小、宇品小と転校して3つ目の宇

 

品小を卒業した。

 宇品小の横には当時豚小屋があった。

 

 樹林舎という出版社が昨年、発行した写真集広島市の昭和 」 の242ページに4年3組

 

の同級生と写った集合写真を発見して驚いた。

 その後、上に書いている宇品中に入学した。荒れにあれまくった学校であった。隣の教室

 

と隔てる壁は生徒の暴力により大きな穴が明けられ、授業中、後ろでは公然とトランプを

 

している連中がいた。

宇品中の教室の窓から、巨大な工場跡地が見えていた。一面草むらで大きな木も見えて

 

た。

後のマツダ宇品工場用地である。

 その後、国泰寺高校を卒業後、広島市役所管財課勤務の傍ら広島大学政経学部(現法

 

部) 第2部法律政治学科に進んだが学園紛争の真っ只中、校門はバリケード封鎖さ

 

れ電流が流れているという怖い噂もあった。

 入学式もなく授業もなく半年分でわずか4800円の授業料だけ請求が届いた。(月額800

 

円、昼間の学生でも月額1000円、市役所の僕の初任給の5%にも満たない金額の授業料だっ

 

たから、それと比べれば今の授業料はかなり高くなっている)

 しばらくはとても 勉学の雰囲気はなく、友人と遊んでいたが、その後体調を崩し道

 

半ばで大学を中退、市役所も辞めることとなったのは ほろ苦い思い出である。そのと

 

きはわからなかったのだが数年後の健康診断で肋膜炎を患っていたことがわかったが、わ

 

かったときには、既に肋膜炎は治癒していて、治癒の痕跡だけが確認された。

 大学を卒業しておれば、今の仕事に役立ったろうとは思う。

 そのころ、大学のクラスメートで仲良しだったM君と先日、平成21年に数十年ぶりに、社

 

会保険労務士会の研修会場の前で再会した。彼は別のことでそこにいたらしい。


 10分遅刻しても出席を認めないという厳しい、「倫理」研修だったのでそそくさと別

 

たが、 彼からもらった名刺には、地元で知らないものはいない金融機関のトップか

 

3目の要職に付いていることがわかった。ずいぶん出世したものだ。

 どういうわけかしらないが忘れていた自分の背中を見た思いがした。

 大学中退時、非常にも黙って彼の前からも去っていたのである。

 懐かしさが強く、先日、りっぱになったM君と酒を酌み交わし語り合い定期的に酒を

 

飲むことを約束した。

  さて、ぼくは、大学中退後、民間中小企業勤務を経て昭和59年、社会保険労務

 

士、後に行政書士事務所を開業、中小企業を顧客として業務展開して現在に至ってい

 

る。

 国民年金が実施される前年、高度成長期の只中、父が他界し、その後母親の手、

 一つで育てられたが、会社勤めをしていた父の加入していた厚生年金から遺族年金が

 

支給され、その支払通知が2カ月に一度送られてきていた。

 一年に6通も届く年金のハガキを見ながら、苦しいながらも年金が我が家の家計の支

 

えになっていることを子供心に感じていた。

 今は一年に一度の通知となっているが、当時の年に6通の年金通知を目にしていな

 

かったら、ぼくはひょっとしたら社会保険労務士にはならなかったかもしれない。

いや、多分なっていなかったろうと思う。

 年金の通知は天国の父からの励ましの手紙のような気がしていたのである。
  
 社会保険労務士が、中小企業の事業主を支え、それとともに労働者の福利に寄与する

 

仕事であるということはもちろん社会保険労務士になった大きな動機ではあったが、年

 

金を取り扱う 専門家であるということも、ぼくを惹きつけた一因であったことは否定で

 

きないように思う。

 今、社会保険労務士を取り巻く環境は激変しているが、常に社会保険労務士を目指し

 

たときの心がぼくを支えているように思う。